何かが起こりそうなんだ

何かが起こりそうなんだ。

男性恐怖症の人に、見知らぬ男とすれ違わせ、「ほら、何もしてこないでしょう。大丈夫ですよ。」と教えている時、その男が襲ってきそうなんだ。

犬が苦手と言う人に、優しい犬を撫でさせ、「ほら、何もしてこないでしょう。大丈夫ですよ。」と教えている時、その犬が噛み付いてきそうなんだ。

オナ禁

オナ禁という言葉は、ネットをある程度使用している男性ならば一度は聞いたことがあるだろう。

オナ禁や関連する言葉について検索してみると、オナ禁によって得られるとされる効果について肯定的なサイトがよくヒットする。

しかし肯定的なサイトというのは、広告がついた週刊誌のサイトやニュースサイト、広告がついたまとめサイトサプリメントの広告がついた個人ブログ、情報商材メールマガジンの宣伝を兼ねた個人ブログ、以上がほとんどのようにみえる。

ときおりオナ禁した日数を記録しているブログも見かけるが、ほとんどが途中で更新が途絶えており、今でも更新が続いているブログは、やはりサプリメント情報商材の宣伝リンクが貼られている。

 

射精およびオナニーはした方がいいという意見は、数々の媒体で度々聞いてきた。

そのような主張をする人たちは、多くの場合は医師であり、実名や顔を公開していた記憶がある。

しかしこんにちネット上で射精やオナニーはしない方がいいと主張している人たちは、多くの場合が匿名である。

 

実名で顔を出した医師の意見と、匿名でアクセス数やお金儲け目当てで発言された意見。

どちらを信じるべきなのかは言うまでもない。

 

匿名掲示板を見てみると、やはりオナ禁についてのスレッドがある。

覗いてみると、オナ禁について肯定的な人は、否定する人を「オナニーばかりしているオナ猿」と罵倒し、否定的な人は、肯定する人を「オナ禁という宗教にハマっているモテない奴」と罵倒している。

たかがオナニーをしているかしていないかだけで、罵倒し合わなくてもいいのに。

 

オナ禁には意味がある、そう思いたければ思えばいい。

オナ禁には意味がない、そう思いたければ思えばいい。

意味がないことをしていても、意味があることをしていても、罵倒されるほどのことではない。

オナ禁をしようと、オナニーをしようと、どちらも個人的なことであり、他人に危害は与えない。

しかし「罵倒」は、人を傷つける。

個人的にオナ禁をしているかオナニーをしているかだけで他人を罵倒していては、人間の多くの行為が罵倒の対象となってしまう。

そうなると、一風変わった行為をする一部の人は、激しい罵倒を受けることとなってしまう。

その現れが、「ガイジ」発言などの障害者差別である。

取るにも足らないことで人を罵倒し合う社会のしわ寄せは、結局マイノリティへと向かうのだ。

生まれ持ったあなたが素晴らしい

最近、配信サイトの興隆により、「イケボ」「カワボ」といった言葉が流行している。

同時に、「ゲスボ」「ゴミボ」といった侮蔑語も流行している。

 

人間の声に「イケている」も「ゲスい」も無い。

人間の声の基準が存在しないからだ。

確かに、太っている人、痩せている人という区別はある。

それは、身長に対する平均的な体重が存在するからだ。

しかし、人間の声に「平均的な声」といったものは存在しない。

同時に、人間には、「美人」も「ブス」も「イケメン」も「不細工」も存在しない。

声と同じように、「平均的な顔」という基準が無いからだ。

「この人は可愛い」「この人はブサイク」と思ってしまうのは、ただ単に、自分のタイプであるかそうでないかであるだけだ。

 

「自分はゲスボだ」「私はブスだ」と悩んでいる人は多くいる。

しかし、悩む必要なんてない。

人間の声に「イケている」も「ゲスい」もなく、人間の顔に「美人」も「ブス」もないからだ。

あなたはあなたしかいない。

あなたに代わりはいない。

生まれ持ったあなた自身が素晴らしいのだ。

 

 

世界中にさだめられた どんな記念日なんかより

あなたが生きている今日は どんなに素晴らしいだろう

世界中に建てられてる どんな記念碑なんかより

あなたが生きている今日は どんなに意味があるだろう

THE BLUE HEARTS 「TRAIN-TRAIN」

正しいこと

猛暑の夏に季節外れなことを言うが、クリスマスになるとカップルを妬みだす人が多い。

「彼氏や彼女がいる人」と「彼氏や彼女がいない自分」を比べて、自分の方が劣っていると考えてしまうのだろうか。

その人たちは、「彼氏や彼女がいる」ことが「正しいこと」だと思ってしまっているのだろうか。

 

付き合っている人がいる

配偶者がいる

所帯を持っている

子供がいる

働いている

自分の力でお金を稼いでいる

外出することができる

人とコミュニケーションが取れる

精神も肉体も健康である

読み書きができる

学校に通っている

友達がいる

...etc

 

書き出したらキリがないが、これらは全てこの世の中において「正しいこと」とされている。

しかし本当は違う。

上記のことは間違ったことではないが、本当に「正しいこと」ではない。

本当に「正しいこと」とは、

弱いものを助け強いものを挫き、慈悲の心を忘れないこと。

優しい気持ちを持ち続けること。

 

自分の考えを持っていなくてもいい。

何もできなくてもいい。

それでも、優しい気持ちを持ち続けること。

これが本当の「正しいこと」。

宝くじが当たった

自分は過去に宝くじの高額当選をしたことがある。

当選したのはロト6の3等で、当選金額は約40万円。

クイックピックで25口買い(宝くじに5000円も使ったのは初めてだった)、その内の1口だけが当選した。

当選が分かったのは日曜日で近所の宝くじ売り場まで引換券を貰いに行ったのだが、その日の自分は目の焦点が合わず、真っ直ぐにしか歩けなかったのを覚えている。

引換券を貰う前に駅ビルの喫煙所で一服しようと思ったが、エスカレーターで立ったままでいることができなかった。

ただただ目の焦点が定まらず、エスカレーターを歩きながら上り、一服を終えてもエスカレーターを歩きながら下る足は震えていた。

 

宝くじ売り場のお婆さんは動じなかった。

職業柄、数百万円数千万円の当選券を何枚も見てきたのだろう。

「これはうちではお渡しできませんねぇ。この裏にご住所とお名前を書いて、これも持ってみずほ銀行で受け取ってください。よその銀行では交換できませんからね。みずほ銀行で交換してください。印鑑もお持ちくださいね。30分くらいお待ちいただくことになると思います。」

お婆さんはなかなかのボリュームの声で喋るので、周辺は工事で人は少なかったものの、周りが気になって仕方なかった。

当選したくじ券とレシート(引換券)を受け取った後、今の自分の運なら何か起こるかもしれないと思い、その場でロト6をクイックピックで50口(1万円)購入した。

購入したくじ券を渡される時に、お婆さんに「大きな金額が当たっておめでとうございます」と言われたので、自分は「ありがとうございます」と返した。

 

翌々日、みずほ銀行に向かい当選金を受け取った。

呼び出し音が鳴り窓口に向かうと、約40万円の札束と封筒がカルトンに置かれていた。

ピン札ではなかったので、札束が分厚かったのを覚えている。

ちなみに、50口のロト6は5等(1000円)すらかすりもせずに全て外れた。

 

当選した約40万円は1ヶ月もせずに全てなくなってしまった。

その内訳は以下だ。

 

Suicaにチャージ 5000円

サプリメント購入 10000円

洋服購入 35000円

ゲーム機・ゲームソフト購入 40000円

Amazonで買い物 10000円

イヤホン購入 30000円

ゲームに課金 130000円

友人へのプレゼント 100000円

宝くじ購入 40000円

 

まさにあぶく銭と言った感じだろう。

書き起こしてみてゲームへの課金がいかにアホらしく無駄な使い方かもわかるし、性懲りもなく宝くじを購入しているが1000円が一度だけ当たったくらいだ。

 

約40万円の当選をして、自分は何か運を持っている人間だと思い込むようになってしまった。

数字がひとつ違えば数千万円、はたまた2億円を獲得できていたという悔しさのようなものもあり、前述の自惚れも加わって、今でも宝くじを購入しては大損するという生活から抜け出せずにいる。